Plastic People––クラブ 踊り 多様性––

Column

 ナイジェリア出身の22歳は大学での経済学のテストを終え、ちょうどロンドンの生活から3年が経とうとしていた。音楽をこの上なく愛していた青年は、音楽における”purist”(=純粋主義者)であり、”ダンスをするために最高な場”という難儀な問題についても、明確なスローガンを持っていた。

まず、最高のサウンドシステムを備えていること。それはDJがやりたいこと、プレイしたいものを意のまま可能にするということ。ただ、高級なスピーカーに巨大なウーファーを取り揃えるだけでは飽き足らず、可能な限りの”理想”を提供するためには部屋が重要だ、その壁が重要だ、と。その偏執狂ともいえるこだわりは、”室内における音の反響”という、もっとも原始的な部分にまで及んでいた。

もちろん、佇まいも重要だ。彼はスローガンを実現するため、過度な装飾やきらびやかなストロボライトの類を否定した。そこでは黒一色の無骨な装いに、できるだけ暗さを保った最小限のライティングのみだ、と。われわれに必要なのは音だけだと認識させるためだ。

しかしこれらを描いたところ、土台無理な話だろう。じっさい、理想はやはり理想のなかにしかないものであるのが関の山。だが、もし理想を探求し続けた人がいたとして、その理想が現実にあったらどうだろう、ピュアリストが理想を追い求め続けた20年間が、実際にロンドンのある地下ではあったとしたらどうだろう。

 〈Plastic People〉。ロンドンのオックスフォード・ストリートとショーディッチにおいて計20年もの間、UKのアンダーグラウンド・シーンの旗振りをし続けた伝説的なクラブは、ダブステップの震源地として、その名を轟かせている。デジタル・ミスティックズによる〈FWD>>〉はこのクラブのアイコニックなパーティとして知られ、スクリームやベンガをはじめとしたダブステップの重鎮たちがDJをし、数々の夜を作りあげた。またこのパーティのみならず、ブロークンビートにおける最重要パーティとして知られる〈Co-Op〉をオーガナイズし、またフローティング・ポインツによる〈You’re A Melody〉のパーティもここで行われていた。

また、ここは彼らの音楽的な実験場としても機能していた。このクラブで初めてプレイされたダフニの「Ye Ye」やフォー・テットの「Pinnacles」、フローティング・ポインツの『Vacuum EP』などの名作から、ここ以外では陽の目を浴びることのなかったとっておきのダブプレートまで、数々の楽曲がこの空間でどう機能するか試された。そういった意味で〈Plastic People〉は、ロンドンのアンダーグランドなダンスミュージックにおいて”音楽的な実験場的役割”を果たしていたとも言える。

以上のことから、<Plastic People>がおもにUKのアングラシーン、そしてダブステップというタームにおいて、よく引き合いに出されるのは事実だ。しかし、それではこのクラブの表面しか知らないと言わざるをえない。クラブの傑出ぶりを正確にはかるならば、〈Plastic People〉の根底にあるものについて、この記事で少しだけ詳しく書き記しておこう。

 一言で表せば、それは”愛”だった。オーナーのアデ・ファキル本人もかなりのハードディガーであり自らもプレイしていたが、そのこだわりはひとつのジャンルに固執するわけでも、高価なレコードをコレクター的価値観で蒐集するわけでもなかった。彼にはどんなレコードも––とんでもなくレアなものであれ––”愛”をもって、それをプレイした。どんなプレミアムがついていようと、その夜〈Plastic People〉に集った音楽への愛あふれる人々へ、レコードを惜しみなくスピンしたのだ。

〈Plastic People〉では、(無論ダブステップのみならず)様々な音楽がかけられ、ジャズ、ソウル、ファンク、ディスコ、ハウス、テクノ、そこに”愛”が通底していればどんなジャンルでも快く受け入れられる懐の深さがあり、アデ・ファキルのジャンルに囚われない横断的なプレイスタイルは、フローティング・ポインツにもおおきな影響を与えた。

アデによるプリミティヴで––しかし、悲しいことについ忘れられてしまう––もっとも重要な、”音楽への愛”という要素が、当時の人々にとってこの空間をある種のユートピアへと押し進めていたことは間違いない。彼のひとつの感情が多くを突き動かし、様々な人々を巻き込んでいったのだ。セオ・パリッシュやフランソワ・Kのようなレジェンドもここで素晴らしいプレイを披露し、とくに後者は、ほどなくしてニューヨークでかの有名な〈Deep Space〉をオーガナイズするが、〈Plastic People〉でのプレイがその青写真となっているのではないかという証言もある。

またD-ブリッジはここでのパーティで、とくにハドソン・モホークが格別だったと述懐していたり、はたまたダフト・パンクがロンドンで初めてプレイしたのもこのクラブであることなどの事実、それらは〈Plastic People〉という空間が、ダブステップやグライムといったロンドンという文化に根ざしたアンダーグランドシーンの旗振りであったのと同時に、常に新しい音楽へと目を向けるオープンマインドな精神を持ち合わせていたこと、そして、それはなによりアデの音楽への”愛”に起因していることは言うまでもない。

 そういった”愛”が広がり、〈Plastic People〉は単なるクラブ以上の、コミュニティとしても機能していくようになる。ほぼ真っ暗(あるいは少しの赤いライト)の空間で、我を忘れるように踊ったあと、そこで踊っている多くはもはや知り合い以上の関係になった。フローティング・ポインツはアレキサンダー・ナットと出会い、[Eglo]を設立し、レーベル運営の多くを任せるバディになり、ここでパーティをオーガナイズしていたフェミ・アデイェミは〈NTS Radio〉を設立し、ここで出会った人をDJとして迎えている。極めついては、ここで生涯の伴侶に出会った者さえいた。Mr.ビートニクが言うように、ここは”一生の友達”ができた場所だったと。またジョン・ラストが言うように、”家族の関係”だった。

 アデ・ファキルは知っていた、本当に素晴らしい空間というものを。20年間かけて作り上げた空間は、彼を支えたシャーロッテ・ケペルという女性が離れることを機に”It felt right to move on”(離れるときが来たように思う)と残し、クローズすることがあっさりと決まった。クロージングパーティでのフォー・テットとフローティング・ポインツのB2Bは、いま聴いてもやはり色褪せない。このセットリストをみれば〈Plastic People〉という空間が、いかに多様性に富んでいるか容易に想像できる。マーラからラロ・シフリンまで、そこに”愛”があれば、なにをスピンしてもかまわなかった。

〈Plastic People〉は人が踊る空間であり、人が出会うコミュニティでもあった。音楽への愛が、アデのもつ愛が、それをみごとに駆動させていた。フローティング・ポインツとSBTRKTはふたりでこのクラブに通い詰め、数々の夜を過ごしたと言われている。フォー・テットや、ダブステップのオリジネーターたちが素晴らしい夜を提供した。そこには若かりしジェイムズ・ブレイクがいて、彼も〈FWD>>〉に感銘をうけたひとりであり、彼がここで披露したギグには、当時たったの数人しかいなかったのだ(!) また、ジェイミー・XXだってベースの効いたクラブサウンドを志向するのはこのパーティでの運命的な体験だと語っている。そして、若かりしベン・UFOとピアソン・サウンド(ラマダンマン)がこのクラブで出会い、パンジェアと3人でシーンを先導する[Hessle Audio]を設立することとなるのは、もう少しあとの話……

〈Plastic People〉はもうなくなってしまったが、そこで醸成されたなにかが途絶えることはないだろう。こうして、この空間が作り出した文化は脈々と受け継がれていき、日夜フレッシュな才能としてあらわれ、音楽ナードを楽しませてゆくのだ。簡単に使っていい言葉ではないことは承知だが、まさに”完璧”だったと思える。それこそニューヨークの〈Paradise Garage〉と比肩するように。最高のサウンドシステム、良い音楽、踊り、人々、全てが揃っていた空間はアデ・ファキルの愛によって作りあげられた。理想というものを、現実でそれを本気で追い求め続けた空間があったのだ。音楽を心の底からセレブレートできる空間が。

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